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鴻臚館(福岡市)

2024年6月

鴻臚館(福岡市)

鴻臚館の遺跡

今から、26年前、福岡市中央区の舞鶴公園にあった「平和台球場」は、老巧化や歴史公園整備を理由に閉鎖されました。この平和台球場の外野席の改修工事(1987)の際に遺構が発見され、本格的に発掘調査がされることになったのが「鴻臚館」(こうろかん)でした。


「鴻臚館」は飛鳥・奈良・平安時代の外交施設でした。中国大陸や朝鮮半島からの使節団の迎賓館として、また日本の外交使節である遣唐使や遣新羅使(けんしらぎし)の宿泊所としても使用されました。同様の施設は、京都(平安京・大阪(難波)にも設けられましたが、遺跡が確認され、国指定の史跡となっているのは筑紫の鴻臚館のみです。


鴻臚館が歴史に姿を現したのは、688年で、「筑紫館」(ちくしかんのむろつみ)と呼ばれました。平安時代になって、中国・唐の外交を司った「鴻臚寺」(こうろじ)にならい「鴻臚館」と改称されました。
この頃より鴻臚館は外交から貿易の拠点へとその役割が変わっていきました。約400年の間、対外交渉の窓口として重要な役割を担った鴻臚館でしたが、1047年の放火事件の記録を最後に歴史の舞台から姿を消します。
鴻臚館の位置については長らく、現在の博多区下呉服町付近にあると考えられていましたが、大正時代、九州帝国大学(現、九州大学)医学部教授で考古学者でもあった中山平次郎博士が、遣新羅使が筑紫館で詠んだ万葉集の歌をヒントに、福岡城内を掘削、調査し古代の瓦や陶磁器等を発見し、福岡城内説を提唱しました。


その後、平和台球場の外野席改修工事に伴い遺構が発見され本格的な発掘調査がすすめられることとなり、現在も続けられています。今では、城内に「鴻臚館跡展示館」が建てられ毎日、誰でも無料で遺跡を見学できます。
*地下鉄、赤坂駅から歩いて10分、9:時~17時閉館(入場は16時30まで)。近くには有料駐車場もあり、展示館右手には城跡もあり、散策も楽しめます。

2024年6月

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